わたしは三重にいたころの精神科でデイケアに3年ほどかよったことがあります。
デイケアは正直にいうと最初はまったく朝も起きられないしプログラムはつまらないしで、やる気もなくすぐ帰ってしまうこともおおかったです。
唯一たのしいのは創作活動の時間で、革細工をいちから模様を付けたり色付けをしたりして、穴を開けて縫い合わせて、ファスナーをつけて。
また、しばらく経ってからはじまった喫茶活動がたのしくてしかたなくなって、隔月開催の喫茶の日ははりきって職員さんや入院患者さんに飲み物の注文を取って運びました。喫茶活動にはそのうち手芸作品を並べる話も出て、わたしはそのころ何も手につかないほどのうつでしたが、喫茶の販売のため、すこしはじめてみたレジンにハマり、最終的には入院患者さんに固定ファン(?)のような方ができて、ヘアピンをつけてくださったり、声をかけてもらったりして、もっとなにかできることをしたい…と前向きに考えられるようになりました。
そのとき、立て続けにお世話になったデイケアスタッフさんたちが新たな道へと歩んでいきました。わたしも、なにかしたい、というきもちだけが先走ってしまい、面接をうけてうまくいかず…を繰り返していたとき、就労移行支援を知りました。
意外ですが、病院というものはこういった支援機関との連携がうまくいっていなかったり、どこそこの病院では相談窓口が設置されているけどここはない、だからみんなしらない、みたいなかんじで、別に隠しているわけではないんですが自力で調べたり、積極的にパンフレットなどを市役所でもらうなどして、なんとかその窓口へつないでもらいました。そこで就労移行支援のC事業所と出会い、1年通い(2年までしか就労移行支援は使えません)、もっと勉強して専門職に就きたいと思うにいたり、専門学校へいくことになりました。そのままC事業所の紹介などで仕事を探すことは選択肢ではありましたが、なにぶん田舎なので、わたしはとにかくパソコンでできる仕事がいい!とこだわっていたため、なかなか仕事がなく、あっても高度な技術が必要だったり、せっかくC事業所で学んだデザインやウェブ構築なんてまったくしない、事務作業としてのパソコン作業がほとんどでした。電話が苦手なので事務はむり、もちろんパソコンがある程度できる証明としてMOSはとりましたが、やっぱり専門学校へのあこがれがありました。
その後、まさくんや義実家の応援もあり、2年間通い無事に専門学校を卒業しました。うつ病がある、と担任の先生にあらかじめ話しておいてあったのもあり、また担任の先生はとても優しく思いやりの深い先生だったので、かなり理解してくださって、また専門学校の臨時職員のカウンセラーの先生もとても優しく、なんとかのりこえることができました。ただ、普通の就職活動はできず、また障害者雇用というのは新卒の専門学校の求人にはこないので、自力で探す必要がありました。そこで卒業ぎりぎりになり、紆余曲折ありA型作業所にデザイン、撮影補助のパートとして採用が決まり、コロナでまさくんは来られなくなってしまった卒業式で担任の先生にそのことを報告できて、とてもうれしかったです。
その後、A型作業所では撮影の手伝いからデザインの練習からはいって、徐々にデザインや印刷会社の常識などを知るようになりました。またコロナという情勢で通販が加速度的に伸びたため、ECサイトの商品画像の加工の仕事はめまぐるしく毎日ありました。そんな中で、すこしずつ原因はこれということもなく、夕方になると熱っぽくなり計ると熱があり、だるくて気力がなくさみしくてたまらない…という症状、そしてうつがまた到来。仕事をやすみがちになり、そのまま休職、退職。残念でたまらなくてふがいなくて、けれどほんとうになにもできなくなって、家事もろくにできず、せめて外に少し出ようと公園を歩いたりする日々を過ごしていました。
そのころ、まさくんはわたしのウェブやデザインの話に反応し、アプリ開発を趣味としてはじめますが、だんだんプログラミングがたのしくなり、仕事でもプログラミング言語を覚えて使うようになり、徐々にそのプログラミングの輪が会社内にひろがってゆき、まさくんはその中でもリーダー的存在になった一方、もはやなんの仕事をしているか周囲が理解できるレベルをこえてしまいました。上司からは評価がよくても、いっしょに仕事をしている人たちからは、パソコンにかじりついて生産が上がるのか?と暗にいわれるなどして、業種がパソコンと相容れないとまさくんは不満を抱くようになり、とうとう何年も準備して転職。
その結果がいまの引越し先での生活です。
わたしはここに書いただけでもたくさんのひとたちにささえられいきてきました。
なのでこれからも生きます。
がんばろうとおもいます。
ながくなりましたが、なにか悩んでいる方の参考になればいいなーとすこし詳しく書きました。
道はいろいろあるよ。
ななも一本道できたわけじゃないし、周りの人もみんな、聞いたらびっくりな人生の秘話をひとつやふたつもってるよ。
B型作業所もすこしだけど利用したこともあるし、すぐ引っ越し決まったからさようならになったけど、子ども食堂ボランティアとか、もろもろボランティアもしてたよ。
わたしは、これから、またなにかはじめたいなとおもいます。
それがなにかはわからない。。
でも、人の役に立ったり、人のこころのそばにいられるような、そんなことがしたいな。。
人に力をあたえられるのは、人なんだよ。
もちろん、人の力を奪うのも人だけど。
でもね、お世話になったひとたちに、やっぱり裏切るようなことできないよ。
なな、がんばっていきていきます。
がんばれなかったわけじゃなくても、ずっとがんばってふんばって、踏みとどまって、最後に踏みとどまれなかった、たくさんのともだちの分もね、陳腐なせりふかもしれないけど、いきるよ。
Coccoのうたでだいすきな『blue bird』という曲に『燃えるアスファルトが両足に染みて、もうここから飛び降りてもいいな、でも明日もまた会いたいんだ』という歌詞があります。(本当はぜんぶ英語歌詞なんだけどうろおぼえなので日本語にしました)
単純な、でも、こころにすっと、なじむ、こたえ。
あしたもまた、あいにくるよ。
“ここへ―――”
ありがとう。またね。